2014年5月16日金曜日

「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」を読んで

木村政彦に魅了される最高の本を見つけて。


木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

ここ最近、もっとも感動した本。木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか、を読んだ。
読み終わった時には涙が溢れるくらい感動したし、力をもらえた本。





自分自身、小さい頃から剣道や柔道をしてきた。就職しても武道というのに少なからずとも携わっていた。

木村政彦の名前は作者の想像通り、力道山に負けた柔道家という印象しかなかった。
格闘技や武道に興味のない人であれば名前も知らないと思う。

題名のなぜ力道山を殺さなかったのかというところだけではなく、木村政彦を通して戦前戦後の柔道界、昭和の生き抜く男達の姿が書かれている。

読んでいる最中にも涙が出そうになった場面も多々ある。
ただの格闘技マニアの本ではない。

日本一の格闘家、いや世界一かもしれない木村政彦の物語を読んで日本人で良かったと誇れるし、自分を奮い立たせる事が出来る本。こんな素晴らしい本を書いた作者に感謝。


木村政彦が柔道と出逢うきっかけ

木村政彦は熊本県の川尻町というところで生まれて、小さい頃は父親の砂利拾いの仕事を手伝っていた。結構な重労働らしく、みるみるうちに逞しくなってきたようで、いわゆるガキ大将だったようだ。

そんなガキ大将にヤキを入れたのが、当時の教師。
その教師が柔道を嗜んでいたようで、勝つために近くの道場に通い始めたとのこと。
このころは柔道ではなく柔術道場だった。
そもそも柔道も柔術の一流派ということがこの本でよくわかる。

ガキ大将の小学生に体罰、暴力をふるう教師、その教師に勝つために柔術を学ぶガキ大将。
そして柔術を学ぶ息子を誇りに思う父親。
漫画のような展開。
現代社会では全く想像できない。今だとどんなオチになるのだろう。
かなり香ばしく、読んでいるだけでタイムスリップをしているかのような気がし、面白い。
場面場面で出てくる、木村政彦のちょっとしたエピソードが尋常じゃない。
これは15、6の少年のエピソードではない。10歳程度の小学生のエピソードだ。
笑うしかない。

学生の頃でさえ一日5時間を超える練習量だったという。
柔道の稽古は、全身運動で全力で攻防をするので並みの体力ではない。

旧制鎮西中学時代は九州の怪物などと言われ名を馳せていた。


牛島辰熊に弟子入り

木村政彦の物語を読んでいく上で、師匠である牛島辰熊は切っても切れない人物だ。
旧制鎮西中学の後に牛島辰熊にスカウトされ、牛島塾に入ることになる。

牛島辰熊のエピソードも半端ではない。もちろん柔道チャンピオン。
木村政彦と同じく旧制鎮西中学出身。
鬼の牛島と言われ、猛虎と恐れられていたという。
試合の直前にマムシの粉を口に入れ気合を入れたという。

なんだこれ。笑 とおもってググってみたら「猛虎」というのがぴったりなお顔を見ることが出来る。
こんな人が怒涛の用に攻めてきたらと、想像するだけで戦意を失うような人物だ。
相手が可哀想。

牛島辰熊の考え方として、柔道とは武士が最後決着をつけるための武道であり、刀もボロボロになり身体での白兵戦を想定したものだという考え方。
なので、今で言う組み合うだけではなく、殴る蹴るも想定していた。
なので木村政彦を寝技の稽古をしている時にも、容赦なく殴っていたようだ。

柔道の負けは死を意味するという考え方。
普通の人間には理解出来ない生き方だと思う。

木村政彦も死を意識する為に、短刀を実際に腹にあて、後は気合で行けると確信したそうだ。
そして死を意識するようになったと。
このエピソードは我々現代人にも通用する意識ではないだろうか。
仕事やプライベートなどで詰まった時に、このような考え方が出来れば怖いものはない。

こんなハードな牛島塾での生活の中で、木村政彦は「三倍努力」と意識し、一日10時間以上の稽古を重ねる。その稽古も乱取りで10時間以上だという。
このハードさは経験者だから分かる。乱取りを1時間するだけで体力、集中力というのはかなり消耗する。
このエネルギーはどこからくるのか。

死を覚悟するというのは、こういうことなのか。
言葉にするのは簡単だが実行するのは本当に難しい。

この本は力道山と木村政彦の関係よりも、師匠である牛島辰熊と木村政彦の関係を物語っている。

牛島塾の寮でふすまに穴をあけて女学生に屁をたれてて、牛島辰熊の妻に怒られたみたいなエピソードもあった。
バンカラを地で行くタイプだったようで、人間性がめちゃくちゃだ。
そしてそこが魅力的だ。現代では到底真似できないような事が多々ある。
年配者が昔は良かったなどというのが、何となく納得できる。

時代が違うというとそれまでで、それだけではない何かがあったと思う。
無茶苦茶なことばかりだが、本当に魅力的な人物が出てくる物語なのだ。
とにかく登場人物が魅力的なのだ。

牛島辰熊も負けは死と同じと思っていた人物。日本一に何度も輝いている怪物である。
それでも1934年の、昭和天覧試合で肝吸虫により弱っていたものの決勝戦で負けてしまう。
この天覧試合というのは、当時は次回いつ開催されるかなどわからぬものであった。
この負けをきっかけに現役を引退し、「牛島塾」を立ち上げた。

牛島辰熊は自分の悲願を木村政彦に託したようだ。
それに答えようとする木村政彦。
この二人の師弟関係、稽古、試合の様子は読んでみるとわかる。
とてもじゃないが、尋常じゃない。

武道の世界で、師匠の方が弱いというのは許されない。
牛島辰熊は木村政彦を最初に徹底的に叩きのめしたようだ。

そんな木村政彦は師匠の思惑通り、並外れた強さを身につけていく。

木村政彦の並外れた強さ

木村政彦は強さは尋常じゃない。
柔道も、精神力も半端ではない。一日10時間乱取りをしているのだ。
その強さも当然だろう。
この本のカバー写真を見てもらえれば分かる。
この写真は10代の頃だという。

肩幅、胸板、首の太さ。尋常ではない。
当時はウエイトトレーニング機材も揃ってないし、科学的なトレーニング方法ももちろん確立していないだろう。
食事も今みたいに栄養満点とはいかなかっただろう。
それでもあの身体なのだ。

強くなる執念というのが、人と違うのだろう。
全ては柔道の為に生きていたという。

歩き方、考え方。全てが柔道につながっていたという。
試合前は瞑想し、頭に「勝」という字が浮かび上がっていたという。

寝ることは死と同じということで、猛稽古が終わっても布団で寝ないのだ。
寝てしまわないように、起きているトレーニングをするという。


このような練習、稽古、訓練を今現在で出来るアスリートが居るだろうか。

おそらく木村政彦は頭もいい。
相手を分析し、自分を知りオリジナルの技なども中学生くらいから編み出していたという。

優秀なスポーツ選手は頭がいいと思う。
よく、〇〇バカとスポーツだけをしてきた人間に対してそういう言葉を使うことがあるが、
本当にその中でも優秀な選手は頭も切れると思う。

木村政彦も間違いなくそうだと思う。

そして、全日本も13年連続でチャンピオンになる。
牛島辰熊悲願の天覧試合も制し、15年間不敗という歴史を残した。

「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし。」と言われるほどの、
最強の名を思いのままにするようになった。

国民的なスターだったのではないだろうか。
今のアスリートであれば例えば野球のイチローや松井、サッカーであれば本田といった感じなのか。

この本には、木村政彦の並外れた強さを証明するエピソードが沢山書かれている。
本当にドキュメントなのか?と疑ってしまうほどだ。

歴代の格闘家の中でも最強だったのではないかと思う。
もちろん机上の空論であって、なにも証明するものがないが、
超弩級の選手だったのは間違いない。


戦争の影響

いずれにせよ、この時代の選手たちの不運は何よりも戦争があったことだ。
戦争で稽古、試合どころではなくなった。

そして敗戦後は、GHQにより柔道へ圧力がかかる。
その辺りの柔道再建への功労者などのこまかい描写も、この本には書かれていて読み応えがある。

木村政彦も例外にもれず、徴兵されるのだが、兵隊としてはおそらくダメダメだったのだろう。
柔道のみなのだ。関係ないところに労力をまったく注がないようだ。

そして、兵隊時代のエピソードも面白く、上官へのいたずらなども読めば必ず笑える。
怖いものなどなかったと思う。

戦争が終わると、木村政彦は地元で闇屋として働く。
妻など家族を食わせる為に、必死だったという。

師匠の牛島辰熊も、木村政彦も生きていくことに必死だった描写が涙腺を緩ませる。

牛島辰熊と木村政彦の違い

同じ超一流の柔道家のこの師弟は、決定的に違いがある。
牛島辰熊は、石原莞爾などと交友を持ち、思想家としての一面がある。
東條英機の暗殺計画をも計画し、執行猶予の刑も受ける。

木村政彦は全く違う、兵役のころも国の為に動く気などもなかったようだ。
木村政彦にとっては柔道が全てで、他のことには興味がない。

空手の大山倍達も、木村政彦の後ろについて歩いていたが、本当に好きだったのは、牛島辰熊
だったという記述もあった。

他人には計り知れないほどの絆で結ばれた師弟関係でも、思想だけは全く違った。

格闘家としての木村政彦

戦後、牛島辰熊がまたしても思想をもってプロ柔道を立ち上げる。
そこでも看板選手として木村政彦が活躍していこうとするのだが、興行として立ち行かなくなる。
木村政彦はそしてついに師匠を裏切り、海外に行く。

木村政彦は、妻の為というが本当のところは分からない。

本の題名にあるように、力道山と絡むまでもで海外でかなり試合をしているとのこと。
抜群に強かったという。

後に第1回アルティメット大会で優勝したこと一気に有名になったグレイシー柔術の、エリオグレイシーとブラジルで試合するが壮絶である。
動画も残っており、木村政彦が圧倒しているのが分かる。

グレイシー柔術では腕絡みという技を「キムラロック」と呼ぶそうだ。
木村政彦がいかにリスペクトされているのかが分かる。


そんなこんなで商売上手でもあった力道山と対決へと、物語はすすむ。
結果は知っている通り。

プロレスだ、セメントだ。といろいろな思惑がある。
ただこの敗戦は木村政彦を歴史上から抹殺した。

この辺りの描写も、読み応え抜群の文章で引きこまれていく。
作者は北大で高専柔道をしており、木村政彦よりだが、力道山に負けたのだと、あの試合は木村政彦の負けだと締める。

力道山も勝負師だ、色々な思惑があったのだろう。


木村政彦は合気道の塩田剛三とも拓殖大学で同期で交流があった。

1987年の「フルコンタクトKARATE」で塩田剛三と木村政彦が対談している。
その中で塩田剛三は、
『真に迫ってる、木村政彦って男は本当に大したもんだよ。 そこまでいけば恐いものは無い。
 拓大もすごい男を出したもんだ。 木村のような武の神髄を極めた男を出した大学は拓大以外にない。 拓大はもっと誇りを感じるべきだな。 東大なんて知識だけだからな。(笑) 頭じゃなく、実際に自分を捨てて体験する、体得ってことはなかなかできないんだ。』
と話している。

塩田剛三のすごいところは、学生時代、あの小柄な体系ながら木村政彦に腕相撲で勝つことがあったという。

これだけ武の達人を排出した拓殖大学というのは確かにすごい。

アルティメット大会で優勝したグレイシーが「木村政彦は偉大だ」とコメントしたことで、再び木村政彦の名が格闘技界に返り咲く。
残念ながらその時、木村政彦はもういない。



本当に強かったのだろうと思う。
日本人として、九州男児として誇りに思う。

これだけ、山あり谷ありの壮絶な人生を送ることがあるだろうか。
そして武道家として、格闘家として木村政彦は最強だったに違いない。



物語の最後の最後、木村政彦が最強だったのではないかというエピソードが作者を軸に展開される。
何度読んでも涙が出そうになる。
本当に感動する本だった。








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